オリエント世界と運ばれるワイン
オリエントとは、ヨーロッパ人から見て「日が昇るところ、東方」を意味する。人類の日の出のように文明はオリエントで発展し、その後ヨーロッパ世界へと広がっていった。ワインも同様にオリエントからヨーロッパへと運ばれてゆく。今回は、古代オリエント世界とワインがどのように発展していったのか、そしてワインは古代オリエントの人々にとってどのような存在だったかを概説する。
古代オリエント世界
古代オリエント世界は、様々な民族が興っては滅亡を繰り返した。
最初にオリエントに文明を築いたシュメール人(詳しくはこちらのページ)は、紀元前24世紀にアッカド人によって征服される。アッカド人は広大な国家を作ったがまもなく滅ぼされ、その後アムル人が古バビロニア帝国を建国した。全メソポタミアを統一した古バビロニア帝国のハンムラビ王は、「目には目を、歯には歯を」という復讐法でおなじみのハンムラビ法典を編纂し、法に基づいた政治を行った。
紀元前17世紀頃にはヒッタイトと呼ばれる鉄器を使う部族がトルコ東部に国家を作り、やがて古バビロニア帝国を滅ぼした。帝国が滅亡した跡のメソポタミア後ではカッシート人が南バビロニアに侵入し支配し、北バビロニアにはミタンニ王国が建国された。やがてメソポタミア全土に領域を広げるアッシリアは、この時期はミタンニの勢力下に置かれていた。
このメソポタミア激動の時期も、人々はワインを飲んでいた。バビロニアの遺跡から見つかった豪勢な盃は、水を飲むため使用されたものとは考えづらい。きっと良質のワインを注いで飲んでいたのだろう。発掘された酒宴の絵画からも、当時の貴族がかなりの量の飲酒をしていたことが推察される。しかしながら、バビロニアの地では確かにワインは飲まれてはいたものの、その地でワインを造ってはいなかったと考えられている。
問題は、バビロニアの人々がどこからワインを輸入していたかである。この問題に対して、ギリシアの歴史家ヘロドトスはちゃんと答えを残していた。彼の記述によると、アッシリア上部に住むアルメニアの国の人々は(図のぶどうを示したあたりの地域)、船を造り、その船にワインを入れた椰子樽を積み込み、ユーフラテス川を下ってはるばる大都市バビロニアまで輸送していたらしい。バビロニアで荷をすべて売りさばくと、彼らはロバに乗ってアルメニアに帰り(ユーフラテス川は流れが速く上流へ航海することはできなかった)、また同じようにワインを運ぶための船を造ったという。
アルメニア人が椰子の樽を使っていたという記述は興味深い。ワインの貯蔵に本格的に樽が使用されるようになったのはローマの時代であり、それまでの時代ではワインの貯蔵にはアンフォラなどの土器を用いるのが主流であった。もし彼の記述が正しければ、アルメニア人は時代の先を行っていたことになる。
ともあれ、古代メソポタミアの頃からすでにワインは重要な交易品であったことが伺える。
盛んになる交易
紀元前14世紀頃の現在のイスラエルなどが位置する地中海東岸地方は、エジプトやヒッタイトなどの侵略を受けており統一国家を作ることができなかった。紀元前12~13世紀に、地中海からやってきた謎の民族海の民がオリエントの地を襲撃した。海の民の襲来によりエジプトやヒッタイトの勢力が弱まり、ギリシアに興っていたクレタ文明やミケーネ文明が滅亡した。この地中海東岸地方の混乱より勢力を伸ばしたのが、アラム人、フェニキア人、ヘブライ人である。今回は、交易で活躍したアラム人とフェニキア人について見てみよう。ヘブライ人は特異で波乱に満ちた歴史を歩んできた民族であるため、別のページでじっくりと解説する。
アラム人はシリアのダマスクスに都市国家を樹立し、内陸貿易の担い手として活躍した。内陸貿易を通じて彼らの用いていたアラム語は国際商業語として広く使用されるようになり、オリエントや東アジアで用いられる多くの言語へと派生していった。キリスト教を開いたイエスも、アラム語で教えを説いたとされている。
対してフェニキア人は、現在のレバノンに位置するシドンやティルスに都市国家を作り、海上貿易で活躍した。エーゲ文明が海の民の襲来により衰えた後に地中海貿易を独占し、地中海沿岸に多くの植民市を建設した。彼らはクレタ島やキプロス島に拠点を築きながら地中海西部へと勢力を伸ばし、ついには地中海の西端であるジブラルタル海峡まで至った。後にローマと長い戦争を繰り広げるチュニジアのカルタゴに植民市を築いた後、シチリア島やスペイン南部も植民市とした。彼らが用いていたフェニキア文字は地中海世界に広まり、アルファベットの原型になった。
彼らがこのような長い航海を成し得た裏には、彼らの拠点であった地中海東部に自生していたレバノン杉の存在がある。レバノン杉は丈夫な木材として知られており、彼らの長期航海に耐えうる船を造り上げるのに利用される他、それ自体が重要な交易品でもあった(エジプトでは貴重なレバノン杉を大量に輸入していた)。レバノン杉は現在レバノンの国旗にも描かれている。
レバノン杉の他にも、フェニキア人の重要な交易品の一つとしてワインがあった。イスラエル沿岸で発見されたフェニキア人の船には、アンフォラが大量に積まれていた。ワインを地中海世界へ運び財を成そうと思っていたのであろう。彼らはワインやワインの醸造技術を地中海沿岸部に持ち込み、地中海にワイン文化を根付かせた。
カルタゴが建設されたチュニジアは現在イスラム国家であるものの、少量のワイン生産を行っている。ワイン文化を地中海に広めたフェニキア人をたたえてか、彼らの名のワインも生産されている。
オリエントの統一
世界史の話に戻ると、ヒッタイトやエジプトの弱体化により勢力を伸ばしたアッシリアは、紀元前7世紀前半には全オリエントを征服するまでに至った。アッシリアは国内を州に分け総督を置いて統治し、駅伝制を定め中央集権を強化した。アッシリアの王アッシュールバニパルは、首都ニネヴェに巨大な図書館を建設した(この図書館跡からギルガメシュ叙事詩が発見された)。しかしこの大帝国も紀元前612年には崩壊し、エジプト、リディア、新バビロニア、メディアの4王国に分離した。その後再度オリエントを整復したのがアケメネス朝ペルシアである。
トルコは現在イスラム圏であるものの、飲酒には比較的寛容でありワインの生産も行われている。国際品種のみならず、トルコでしか栽培されていないレアな品種からもワインが作られている。トルコ東部の「シルーフ」というワイナリーは、なんと古代アッシリア人の末裔とされる人々がワインの生産を行っている。古代アッシリア人と全く同じ製法というわけではないはずだが、古代オリエントに思いを馳せながらワインを楽しめるだろう。
このように、ワインはオリエントで発展してゆき、交易を通じて徐々にヨーロッパへと運ばれていった。以後オリエントはワイン文化発展の第一線を退き、その役割をギリシアやローマなどの地中海世界へと受け渡す。ただ地中海世界の話をする前に、次回はキリスト教に重大な影響を与えたヘブライ人と旧約聖書について話をしよう。