ワインと世界史

民主主義と西洋文明、そしてワイン文化の黎明

暗黒時代を抜けたギリシアは、その類まれなる文明を花開かせる。彼らは世界でいち早く民主主義を取り入れ、後の世の模範となった。彼らの文化や芸術は、ヨーロッパのクラシックとして現代もなお尊重されている。そしてなにより彼らの手によってワインも洗練され、文化としてのワインが大成した。彼らはいかにしてこのような人類の模範とも呼べる文化を手に入れたのだろうか。その歴史を紐解いてゆこう

海へ繰り出すギリシア人

400年にも渡るギリシア暗黒時代の後(こちらも参照)、各地で有力者を中心に再び都市が生まれるようになった。この都市のことをポリスと呼ぶ。ポリスの形成により社会が安定し人口が増加すると、彼らは海へ繰り出した。地中海にはすでにフェニキア人が開拓した航路があったが、フェニキア人が衰退したためギリシア人はこの航路をすっかり自分たちのものにしてしまった。彼らは大規模な植民活動を行い、地中海や黒海の沿岸各地に植民市を建設した。

ギリシアのフォカイア人は、紀元前600年にマッサリア(現在のフランスのマルセイユ)に到達し植民市化した。マルセイユの港の埠頭には、「西欧文明はこの地から始まる」とギリシア人が到達したことを記録する青銅のプレートが埋め込まれている。

せっかくなので青銅についても、簡単に解説しよう。青銅とは、銅と錫(すず)という金属の合金である。オリエントで鉄が普及する前は、武器や農具などに広く使用されていた。この時期の文明を青銅器文明と呼ぶ。鉄が普及してからも、錆びづらい青銅器は一部製品に使われ続けてた(オリエントについてはこちらも参照)。

青銅の原料となる銅はアナトリア地方やキプロス島で採れるが、オリエントやギリシアの人々はもう一つの重要な原料である錫をどこから入手していたのだろうか。そのうちの一つと考えられている場所が、現在のイングランドに位置するコーンウォール鉱山である。

ギリシアの人々は、錫を入手するために、ヨーロッパを縦断しはるばるイングランドまで交易していた。ギリシア人はマッサリアを拠点にしてローヌ川を上り、ブルゴーニュやセーヌ川を通りドーバー海峡に至るまでの交易ルートを確立した。このルートの存在を確証付けるのが、ブルゴーニュ地方で発見された紀元前5世紀ごろの王妃の墓である。その墓からは、ワインを水で割るための器である混酒器(クラテル)、それも巨大なものが発見されている。どうやら、ギリシア人はこの現在のフランスを縦断するルートを通じて錫とワインを交易していたようだ。

ギリシア人の錫の交易ルート

民主主義へ

古代ギリシアが生み出した最も重要な思想の一つとして、民主主義が挙げられる。ギリシアは世界で初めて民主政治を行った地であり、今日多くの国が取り入れている民主政治の原型を作り上げたと言っても過言ではない。ワインとは少し関係が薄いが、ギリシアの民主化への道のりを見てゆこう。

古代ギリシアのポリスの住人は、貴族平民(まとめて市民と呼ぶ)、そして奴隷の三つの身分から成っていた。貴族は血統誇る富裕層の戦士であり、ポリス内の政治を独占していた(貴族政)。平民は、貴族に従属しない独立した自由な市民であり、平民同士の関係は平等であった。それに対して奴隷は、市民に隷属する身分であり人身売買の対象であった。

奴隷制度が最も発達していたのはアテネである。このアテネが民主化への舞台となる。貿易活動が盛んになってくると、平民でも余剰資産を得る者が増えてくる。富裕になった市民は武器や防具を買い、重装歩兵部隊として軍の主力にまでなっていった。国防の主力になった平民は、参政権を主張して貴族と対立し始める。

紀元前7世紀になると、アテネのドラコンが慣習法の成文化を行った。これにより貴族の勝手な法解釈を防止し、法による秩序が形成された。紀元前6世紀初頭にはソロンの改革により、土地の債務が帳消しにされ農民が守られた。また、財産額に応じて市民を四等級に分け、等級に応じて参政権を与えた。

やがて多くのポリスでは、実力により市民の支持を得た独裁者が政権を奪い僭主政治を行った。紀元前6世紀半ばにかけてアテネではペイシストラトスが僭主政治を行い、中小農民を保護し平民層の力を強めた。僭主政治が崩壊した後は、クレイステネスにより部族製の改革が行われ、五百人評議会の設置を行った。また、僭主の出現を防止するために陶片追放(オストラシズム)の制度も作成した。これは、僭主になる恐れのある人物を市民が陶片(オストラコン)に書いて、6000票以上集まると最多得票者が10年間国外追放されるという制度である。これらの改革により、アテネは民主政の基礎が築かれた。

陶片(オストラコン)
(photo by Carole Raddato)

ギリシアが民主政を築き上げている間に、オリエント地方ではアケメネス朝ペルシアという大帝国が形成されていた。アケメネス朝ペルシアは、小アジア(現在のトルコ)のイオニア地方にあるギリシア人植民地を圧迫し、反乱を起こした。これをきっかけとして勃発したのがペルシア戦争である。民主政によって団結したアテネの重装歩兵部隊は、紀元前490年のマラトンの戦いでペルシア軍を打ち破った。マラトンの戦いの勝利報告のため、フェイディピデスはマラトンからアテネまでの37kmを走ったという故事に由来して、第1回近代オリンピックからマラソン競技が生まれた。マラトンの戦いでの勝利の後、テミストクレスの指導により海軍が拡充され、10年後のサラミスの海戦、そして翌年のプラタイアの戦いで勝利し、ギリシアのポリスをペルシアの侵攻から守った。このサラミスの海戦で活躍したのは、漕手として活躍した無産市民であり、アテネでは今後彼らの政治的位置が上昇し民主化へ大きく進んでゆく。

ペルシア戦争に勝利した後、ペルシアの再来襲に備えエーゲ海周辺の多くのポリスが、アテネを盟主としたデロス同盟を結んだ。そして紀元前5世紀半ば頃には、ペリクレスの元でアテネの民主政が完成された。身分や資産を問わず成年男性市民全員に参政権を与え、最高議決機関として成年男性全体の集会である民会が確立し直接民主政が成立した。この民主政はデロス同盟を中心としてギリシア全土のポリスへと広がっていった。このようにして、ギリシアでは世界初となる民主主義を生み出したのである。この民主政はローマに引き継がれたが、ローマが滅亡するとすっかりと忘れ去られてしまい、再び民主主義の動きが始めるのはそれから数百年後の世界である。

民衆を説くペリクレス
Philipp Foltz『Pericles Gives the Funeral Speech』

ギリシアの知識人とワイン

ギリシアの発展に伴い、人々は経済的に豊かになり余暇が生まれるようになった。ギリシアの市民たちは互いに対等な関係であったため、自由で活発な議論が交わされた。このような学問や芸術を発展させるための環境が整ったことがあり、ギリシアの文化は人類の模範とも呼ばれるまでに洗練された。

ギリシア人の思考を端的にまとめると、合理的で人間中心的なものであった。論理と議論を重視したギリシア人は、自然現象を神話ではなく合理的に解釈しようとしたため、イオニア自然哲学と呼ばれる科学的な思想が発達した。タレスは万物の根源を水と言い、はたまたピタゴラスは数だと言い、デモクリトスまでなると万物の根源は原子だと原子論まで説いている。彼らの思想はは近代的な自然科学にかなり近いレベルまで達していた。ヒポクラテスは、今までは呪術的要素が強かった医学を、迷信などから切り離し学問として大成させた。

興味深いことに、ヒポクラテスの経験と観察に基づいて執筆された医学書にはワインに関する記述が多数見られる。赤ワインは水分が多いため腹の張りを起こし、若い白ワインは喉を乾かさせずに人体を温める。(発酵途上の)甘いワインは強いワインに比べると頭痛になりづらく、十分発酵した白ワインは利尿・緩下作用があるので急性の病気に役に立つ、などと真偽はさておきワインの医学的効用をかなり分析している。ワインは薬として様々な病気に処方されていたが、ヒポクラテスは「頭痛が激しい場合はワインを飲んではいけない」と釘を差している。古代ギリシアから、迎え酒は戒められていたのである。

古代ギリシア哲学者の合理的な思想は、科学だけにとどまらず様々な分野に散見される。歴史家ヘロドトストゥキディアスは、過去の歴史を神話ではなく史料に基づく客観的な探求によって記述した。相手を説得する技術を教えるソフィストという職業も出現した。ソクラテスは、「すべての真実は神のみぞ知るものであり、人間は世界を完璧には理解することはできないので、慎ましく生きよ」と無知の知を説いた。ソクラテスの弟子のプラトンはイデア論を提唱し、その弟子であるアリストテレスは当時の哲学を学問ごとに体系化させ「万学の祖」と呼ばれている。言論の自由が保証されたアテネでは喜劇や悲劇などが催され、アイスキュロスやソフォクレス、エウリピデスなどの悲劇作家やアリストファネスなどの喜劇作家が活躍する。ギリシアの劇に関しては当時の神話と密接に関係しているため、別ページでじっくりと紹介する。

ラファエロ・サンティオ『アテナイの学堂』
ピタゴラスやアリストテレスなど様々な哲学者が集っている

彼らのようなギリシアの賢人たちは、普段から知識人同士でよく議論を交わしていた。その意見交換の代表的な場が「シンポジウム」である。現代で言うシンポジウムは、一つの議題について何人かが意見を述べ合い質疑応答をくりかえすような堅苦しい討論会の印象があるが、元々は、古代ギリシアで行われていた、食事の後に長椅子に寝そべりワインを飲みながら議論を交わすというくだけた会であった。

議論のお供としてワインを飲んでいたギリシアの知識人たちは、ワインの飲み方に高尚さを求めるようになっていた。プラトンは、未成年は飲んではならず、三十までは適度ならよいが飲みすぎてはいけない、四十を過ぎると浮かれ騒ぎをしていい、などとお酒に関して説教じみたことを説いている。美食の開発者アルケストラスは、「食べつつ飲み、飲みつつ食べる」のがよいと言った。

飲み方に高尚さを求めるようになった古代ギリシアの知識人たちは、ワインを何で割って飲むかを重視した。ギリシア人はワインを何も割らずに飲むことはまれであり、少なくとも混酒器(クラテル)に入れ水(海水)で割って飲んでいた。豪華な料理とともに飲むワインでは、さらにスパイスなどを混ぜ料理に見合うものにした。

しかしながら当時のギリシアでは、今日のレッツィーナのようにワインに松脂を入れてるのは稀だったとされている。そもそもなぜワインに松脂かというと、松脂は当時ワインを入れていたアンフォラに封をするための接着剤として使用されていた。アンフォラの口に塗られた松脂の風味が移ったか、または松脂が直接ワインと触れ合ったか、いずれにせよ松脂風味のワインができるのは自然である。しかし当時はワインに松脂の風味がワインに映るのは好まれなかったとされている。ワインに好んで強く刺激的な松脂の風味をつけるようになったのは、時代が進んでローマの時代である。

以上のように、ギリシアの人々はワインを洗練させて文化として大成させた。ギリシアの文化人は確かにワインを嗜んでいたが、ギリシアの庶民もワインを飲んでいた。それも、知識人とは異なった飲み方で。次回は、彼らがワインをどのように飲んでいたかを、彼らの信仰したギリシア神話とともに探ってゆこう。

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