古代ローマ帝国のボルドー
アウグストゥスが帝政を確立してから、ローマ帝国に「パクス・ロマーナ」と呼ばれる200年にも及ぶ平和と繁栄が訪れた。この時期に整備建設された道路や水道、都市は、現在にまでその原型を残しているものも多い。都市にはコロッセオに代表される競技場が建設され、人々は「パンと見世物」を楽しんだと言われているが、ローマの人々は間違いなくワインも楽しんでいた。帝政ローマの時代、紆余曲折はあったもののワイン産業は益々発展してゆき、ワインは人々に広く行き届くようになっていた。現代にまでその影響を残すローマ帝国の最盛期、そして衰退の様子を、ワインとともに見てゆこう。
五賢帝時代から3世紀の危機
ローマ帝国最初の元首であるアウグストゥスが退位した後、ユリウス・クラウディウス朝、フラウィウス朝と続いていき、フラウィウス朝最後の元首であるドミティアヌスが暗殺された後、五賢帝の時代と呼ばれる約100年に渡りローマが最盛を極める時代が始まる。
五賢帝一番最初の元首であるネルウァの在位はわずか紀元96~98年の期間であったが、続くトラヤヌスは対外戦争を積極的に行い、トラヤヌスの統治時にローマ帝国の領土は最大になった。それに対して後を継いだハドリアヌスは穏健派であり、戦争を避け外交に力を入れた。また、地方都市の現状を把握するために帝国内を巡回し、民生の安定に尽力した。アントニヌス・ピウスの時代は大規模な軍事遠征がなく極めて平和であり、五賢帝最後の皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスは哲学者としても有名であり、遠征地で哲学書『自省録』を書き上げた。
五賢帝の一人であるハドリアヌスの名前は、イタリアのアドリア海側に位置するハドリアという街と親交があったことに由来すると考えられている。このハドリア(Hadria)の街は、アドリア海の名前の由来にもなっているとされている。ハドリアでは、ハドリアヌムと呼ばれるローマで名を馳せた銘酒が生産されていた。古代ローマ時代にハドリアヌムを造っていた場所では、現代ではロッソ・ピチェーノと呼ばれるDOCワインが生産されている。
五賢帝の末期頃から、ローマは財政不信に陥っていた。マルクス・アウレリウス・アントニヌスを継いで皇帝になったコンモドゥスは、暴政のため暗殺され、新たにセウェルス朝が勃興した。セウェルス朝時代の皇帝の一人であるカラカラ帝は、212年にローマ全国の自由人にローマの市民権を与えるというアントニヌス勅令を発布した。ローマ市民に課した税金の徴収を増やすのが目的と考えられているが、この勅令により名実ともに現在のグレートブリテン島からシリアやエジプトまでの広大な領域がローマ帝国の領土となった。
セウェルス朝が断絶した後は、わずか50年のうちに26人もの皇帝が乱立し殺害されるという軍人皇帝時代が続いた(3世紀の危機)。この動乱期で、外敵の侵入が相次ぎ、元老院の力の衰退により元老院が国を指導する伝統は途絶え、パクス・ロマーナも終りを迎えた。
この頃になると社会の仕組みも変化しつつあった。これまでは奴隷を働かせるラティフンディアと呼ばれる農業形態が一般的であったが、パクス・ロマーナにより戦争奴隷が減少したため、貧困化して年を去った下層市民をコロヌスとして働かせるコロナトゥスが発展した。このコロナトゥスは、中世の農奴制の原型である。
一夜にして消滅した都市ポンペイ
帝政が確立されてから最盛の五賢帝時代にかけて、ローマの人々はどのような暮らしをしていたのだろうか。南イタリアのカンパーニア州には、当時の人々の暮らしをタイムカプセルのように活き活きと保存している街がある。ポンペイである。
ポンペイは古代ローマ時代に隆盛を極めた大きな港街であり、港に届いた物資をローマへと続くアッピア街道に運ぶための拠点であった。人々はこの活気に満ちた街で、経済活動を行い、円形闘技場で見世物を見て、公衆浴場に集い汗を流し、そして風呂上がりにみんなでワインを飲む。こんな平和な暮らしがポンペイの街では営まれていた。西暦79年のある日の昼下がりまでは。
突如大地を揺らす地響きとともに、激しい爆風がポンペイの街を襲った。それと同時に真っ黒な噴煙が空を覆い、あたりを漆黒へと変えた。ヴェスヴィオ山の噴火である。ポンペイの北西10kmの距離に位置するヴェスヴィオ山の噴火による火砕流は、隆盛を極めたポンペイの街を一瞬にして地中に埋めてしまった。人々の多くはローマなどに逃げ延びたのだが、逃げ遅れた人々は火砕流に巻き込まれてしまった。
大都市ポンペイは、ヴェスヴィオ山の噴火により一夜にして灰に埋もれてしまったが、図らずも、ポンペイは古代ローマの都市の風景をまるでタイムカプセルのように保存することとなった。18世紀に発掘されるまで、ポンペイは古代ローマの姿をありのまま保存し続けた。古代ローマ時代の建造物や街並み、壁画や美術品などが、その形をきれいに残しながら1000年以上の月日の間眠っていた。現在は、古代ローマ時代の街並みを完璧に保存した研究に欠かせない場所である他、観光名所としても名を馳せている。
なぜポンペイを紹介したかというと、このポンペイ、実はワイン貿易の要の都市であったからである。ポンペイでは、スペインなどの植民市から輸入したワインをローマに向け輸送したり、ローマ近郊で造られたワインを輸出したりしていた。ポンペイ郊外で発見された31邸のうち29邸はワイン生産者宅であり、地下には大きなワインセラーが見つかっている。近くには広大なぶどう畑の痕跡も残っている。ポンペイは、まさに現代のボルドーとも言えるようなワインの国際的な流通の要所であった。
さて、このワイン貿易の中心都市がヴェスヴィオ山の噴火によって一夜にして消滅してしまったので、ローマは大混乱である。ローマでは、ワインの主要な供給源がなくなってしまいワインの価格が高騰した。この混乱に慌てふためき、人々が至るところでブドウ栽培を始めワイン醸造を始めた結果、ワインはすぐに供給過多になってしまった。
この供給過多により、西暦92年に当時のローマ皇帝ドミティアヌスは、かの有名な勅令、ドミティアヌスの禁令を発布した。それは、イタリアにこれ以上ブドウを植樹することを禁じるとともに、属州のブドウを引き抜くことを命じるものであった。ドミティアヌスの禁令が発布された背景ははっきりとしておらず、ローマのワイン市場を守るためであったり圧迫されていた穀物の栽培へと促すためであったりなどと、現在も専門家の中で議論が続いている。
このドミティアヌスの禁令は約200年間施行されワイン産業を苦しめていたが、280年にプロブス帝により廃止された。この後、ガリア地方ではブドウ農園が目覚ましい発展を遂げる。
マストロベラルディーノは、国際品種の波に屈せず土着品種でのワイン造りを続けてきた、カンパーニア州を代表する生産者である。カンパーニア州の偉大なDOCGワインたちが高評価を受けているのも、マストロベラルディーノが土着品種を精力的に栽培しワインを造ってきたからと言っても過言ではない。そしてこのマストロベラルディーノ、なんとポンペイ遺跡から発掘されたぶどうでワインを造るイタリア政府のプロジェクトを一任されている。ポンペイの畑でワインも造る生産者のワイン、ぜひご賞味頂きたい。
ローマ帝国の衰退
ローマ動乱の時代である3世紀の危機に終止符を打ったのは、284年に即位したディオクレティアヌスであった。彼は専制君主政を展開し、ローマ帝国東西に正帝と副帝を立てローマ帝国を四分して統治する四帝分治制(テトラルキア)を始めた。この四帝分治制により帝国内の防衛力が高まり、ローマ帝国の秩序が回復した。またディオクレティアヌスは、大胆な税制改革と同時に、インフレを抑えるために物品の価格の上限を定める最高価格令を発布したが、このときワインの価格の上限の基準として選ばれたワインは、上述の銘酒ハドリアヌムであった。
ディオクレティアヌス退位後、四帝分治制の継承は失敗し内乱が生じた。内乱に勝利し西の正帝となったコンスタンティヌスは、内乱を勝利に導いてくれたキリスト教を信じるようになり、313年のミラノ勅令によりローマ帝国でキリスト教を公認した。330年にはローマの首都をコンスタンティノープル(現在のイスタンブル)に移動させ、強力な官僚体制を作り上げた。
しかし外敵との戦争は再燃し、さらには375年に始まるゲルマン民族の大移動によって帝国は再度混乱に陥る。ローマ帝国統一の限界を悟ったテオドシウス帝は395年に帝国を東西に二分し子に分け与えた。その後、アラリック率いる西ゴート族が西ローマ帝国を荒らし回り、さらには首都ローマを占領し激しい略奪も行う。永遠の都ローマの陥落。ローマの貴族たちは四散し、西ゴート族はそのままヒスパニア(現在のスペイン)に入り西ゴート王国を建国した。ヴァンダル族、ブルグンド族(現在のブルゴーニュ付近へ)、フランク族(後にフランク王国を建国)、サクソン族(ブリテン島へ)などもガリアに侵入し、それぞれの場所で定住し始める。アッティラ率いるフン族の強大な軍団はローマの司教レオ1世が説得により退けたものの、476年にゲルマン人傭兵隊長であるオドアケルによってローマ皇帝が退位させられ、西ローマ帝国は滅亡した。
それに対し東ローマ帝国は、領土を縮小させながらも、1453年にオスマン帝国により滅ぼされるまでビザンツ帝国として長く存続した。ビザンツ帝国の皇帝ユスティニアヌスは、首都コンスタンティノープルにハギア・ソフィア聖堂を建築したり、ローマ帝国の優れた法をまとめ上げた『ローマ法大全』を編纂したりと、キリスト教ローマ帝国再建のための整備を積極的に進めた。ビザンツ帝国が滅ぼされた後は、ローマ帝国の理念はロシア帝国により継承される。
ローマ帝国の滅亡は、古代時代の滅亡と称される。古代メソポタミアで生まれたワインは、古代ギリシアでその文化を花開かせ、古代ローマで最盛を極めた。人々は現代人と同じようにワインを造り、そして飲んでいた。そして古代ローマ帝国滅亡後の中世の時代以降、ワインはさらに特別な意味を付与されることになる。中世の歴史へと話を進める前に、中世ヨーロッパの精神世界の根本を形成するキリスト教について見てゆこう。