ワインと世界史

ガリア戦争と樽

「賽は投げられた」

これは、かの有名なローマの名将カエサルが、敵対するポンペイウスを討つべく、軍団を率いてルビコン川を渡る際に放ったセリフである。もう後には引けない、短い言葉ながらカエサルの強い意志が読み取れる名言である。

カエサルは、ガリア地方(現在のフランスやドイツ一部)に遠征しローマの属州とし、ローマの文化をガリア地方へ伝導した。そのため、カエサルはガリア地方にワインを広めた立役者とも言われている。後のワイン帝国フランスにローマのワイン文化をもたらしたカエサルは、確かに現在まで続くワイン文化の賽を投げたのである。

ローマはガリア地方にワイン文化を伝えたのだが、ローマもガリア地方からワインに関する重要なアイデアをもらった―樽である。以後の世界では、樽の使用によりワインはさらに発展することとなる。カエサルのガリア遠征やローマ帝国の成立などの歴史とともに、ワインに起こった数々の革命の歴史を見てゆこう。

ガリア戦争

紀元前1世紀に入ると、平民派のマリウスと閥族派のスラがコンスルの座をめぐり争った。老将マルクスは死去しその後を継いだキンナをスラが破り、軍事的第一人者となったスラはローマの独裁官(ディクタトル)に任命され、平民派の権限を制限した。

スラの死後、武力で第一人者になるという彼の理念を継いで頭角を現したのがポンペイウス、カエサル(シーザー)、クラッススであった。彼らは剣奴スパルタクスの反乱を鎮圧するなど軍事的な功績を上げ、民衆からの支持を得た。彼らをよく思わない元老院と閥族派に対抗するために、三者は同盟を結んだ(第一回三頭政治)。この同盟により、カエサルはガリア地方の総督に選出された。カエサルのガリア戦争はここから始まる。

ガリア戦争とは、カエサルがガリア地域(主に現在のフランス)の部族に対して繰り広げた8年にも渡る戦争のことである。ガリア戦争の様子は、カエサルが自らが著した『ガリア戦記』につぶさに記載されている。この戦争は数十万というガリア人が戦死するような無慈悲な侵略戦争であったが、ガリア戦争の勝利によってカエサルは権力を上げ、ローマはガリア全土を属州とした。ガリア戦争の歴史的意義はそれにとどまらず、この戦争によってガリア全土に平和がもたらされた他、ガリア地域にローマの優れた文化が―もちろんワインも―もたらされた。今後のフランスを中心とした西洋世界の発展は、カエサルのガリア戦争が契機であると言っても過言ではない。

ガリア戦争について興味のある方はぜひ『ガリア戦記』を読んでみて欲しい。

ガリア戦争の発端は、現在のスイスや南ドイツにかけて居住していたヘルウェティー族が、ローマの領土であったアロブロゲース族の土地を通過しようとしたことであった。ちなみに、アロブロゲース族の領土にはアロブロジカ種と呼ばれる優秀なブドウが生息していた。このアロブロジカ種は、ピノ・ノワールの祖先とも言われている。

カエサルは、ヘルウェティー族の討伐をきっかけに、どんどん北進していった。ローマ軍は、戦闘力はもちろんのこと、大河にわずか数日で橋をかけてしまうような圧倒的な土木建築技術であったり、部族間の軋轢を利用する交渉術であったりを駆使し、最終的には全ガリアを平定した。そんな彼らが戦いの際に常に気をかけていたのは、食料の確保であった。彼らが戦のために準備した食料は、穀物を始めとし、野菜や塩、そしてワインであった。穀物などは現地で調達できるかもしれないが、飲料水を確保しにくい場所ではワインは軍の必需品であった。自然の水は水あたりの危険性があるが、ワインはそのような心配がない。ワインはローマ軍の飲料水として非常に重要な位置を占めていた。もっとも、ローマ軍が飲んでいたワインは、下級の酸化が進んだ酸っぱいワイン(アケトウム)であった。

このようにローマ軍はガリアでもワインを飲んでいた。そしてガリア戦争を通じてガリア人にもワインを飲む習慣が着実に浸透していった。中には、ワインはローマ軍の罠だ、と言って頑なにワインの輸入を禁じた部族もいるほどであった。カエサルは確かにガリア地方にワイン文化を持ち込んだのである

カエサルは、森の中に隠れて攻撃してくるガリア人に備えて、兵を挙げてガリアに広がる森林を伐採した。その開けた土地にカエサルの軍がブドウを植えていったことからブドウ栽培がフランスに広がっていったという説も聞くが、これは少し無理がある。カエサルがガリア戦争を行っていた時代では、ブドウ栽培の北限は現在のプロヴァンス付近までであった。これらの土地に適したブドウは、それより寒い地域ではうまく育たない。ガリア地方でブドウの栽培が盛んに行われるようになるのは、ガリア戦争から1,2世紀後の、耐寒性のあるブドウが出現したころからである。しかし、ブドウの栽培ができるようになると、ガリア人の熱の入れ方は尋常ではなかった。ガリアはまたたく間にブドウの土地になっていった。

フランスにワイン文化をもたらしたカエサル自身も、ワインをかなり飲んでいた。そんなカエサルが好んだとされているのが、シチリア島のマメルティーノである。「戦士のワイン」ともてはやされたワインは、2000年の時を越えてシチリアの大手ワイナリーであるプラネタによって復刻された。

カエサルが愛した戦士のワイン

ガリアと樽

ローマ人は、ガリアに一方的にワイン文化を与えたわけではない。ローマ人はガリア人から、今日のワインには欠かせないある要素を学んだ―である。

ガリアでは地中海付近の都市から輸入したワインも飲まれていたが、当時のガリア人が飲んでいたのはもっぱらビールであった。当時のガリアは大部分が森であったため、ガリア人はその木から作った樽にビールを入れて保管していた。最も、樽は液体の保存のみに使用されていたわけではなかった。『ガリア戦記』によると、ガリア人は松脂を入れ燃やした樽を転がしてローマ軍を攻撃したという。ローマ人は、ガリア人の使っていた樽に目をつけた。当時ローマ軍がワインの運搬に用いていたのは陶製のアンフォラであった。しかしアンフォラは重く、そして壊れやすい。その証拠として、壊れたアンフォラの破片が様々な場所から発見されている。それに引き換え樽は軽く、何より壊れない。ローマ人は次第にワインの保管や運搬に樽を使うようになっていった。

樽の使用によりワインの運搬や貯蔵が容易になっただけではなく、ローマ人が気づいていたかは定かではないが、樽でワインを保存することによってワインはおいしくなる。以降、ワインと樽は切っても切り離せない関係になってゆく。ガリア人から知恵をもらい、ローマ人がワインの保管に樽を使用し始めたことで、今後のワイン世界は大きく変わっていった。

ローマ帝国の成立

カエサルがガリア戦争を繰り広げている最中、ローマの政情はカエサルにとって不都合な方向へと向かっていた。ポンペイウスが元老院と手を組みカエサルを公敵宣言したのだ。このままでは自らの立場が危ぶまれると思ったカエサルは、「賽は投げられた」と言い放ち、ガリア戦争を共に戦った兵を引き連れルビコン川を渡りローマに進軍した。ポンペイウスとの激戦の末、カエサルは勝利をつかみ取りローマに凱旋した。カエサルは独裁官となりローマの事実上の王となったが、紀元前44年、腹心であったブルータスによって暗殺された。暗殺される際にカエサルが放った「ブルータス、お前もか」という言葉は、シェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』により現在も語り継がれている。

『カエサルの死』ヴィンチェンツォ・カムッチーニ

カエサルの死後、彼の意思を受け継いだアントニウス、オクタウィアヌス、レピドゥスの3名が政治同盟を結び、第二回三頭政治を始めた。やがて、ポンペイウスの子セクストゥスを倒しレピドゥスを引退に追い込んだオクタウィアヌスはローマ帝国の西方を、アントニウスは東方を支配するようになった。両者は、アントニウスの裏切りにより対立が深まってゆく。というのも、アントニウスはオクタウィアヌスの姉オクタウィアと結婚していたのだが、アントニウスには別に真に愛した女がいた。クレオパトラである。

アントニウスが東方遠征の準備でエジプトのアレクサンドリアに立ち寄った際、クレオパトラと出会った。この出会いをきっかけにアントニウスはクレオパトラに夢中になり、首都をローマからアレクサンドリアに移そうとしたり、クレオパトラと同じ墓に埋めてくれという遺言を残したりと彼女に夢中であった。アントニウスは自らを新ディオニュソスと称し、クレオパトラはアフロディーテに仕立て上げられた(ギリシア神話についてはこちら)。彼らの豪勢な饗宴では、ワインが豪華な酒器に入れられ飲まれていた。アントニウスは、アフロディーテが生まれた島として知られる高級甘口ワイン産地キプロス島をクレオパトラに献上したという。

クレオパトラも愛したという、紀元前から愛されてきたキプロス島の極甘口ワイン

オクタウィアヌスとアントニウスは、紀元前31年、ローマ帝国の命運をかけアドリア海のアクティウムで戦った。このアクティウムの海戦はオクタウィアヌスの勝利で終わり、アントニウスは部下に殺されクレオパトラは蛇の毒で自害した。オクタウィアヌスは名実ともにローマ帝国の王となり、元老院から「アウグストゥス」の称号を受け取る。こうして紀元前27年、初代皇帝アウグストゥスの元に帝政ローマが成立した。

「アクティウム海戦」Lorenzo A.Castro

以上のように、カエサルの手によってワイン文化がフランスへともたらされた。それと引き換えにローマには、樽という今後のワイン世界には欠かせない要素を手に入れた。これらの相互作用も相まって、ローマ帝国の時代に古代ワイン文化は最盛を極める。次回は、最盛を極めたローマ帝国で、ワインがどのように飲まれていたのかを見てゆこう。

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