甘口ワインに口づけ
「全ての道はローマに通ず」
このような格言が生まれるように、西洋世界の情勢や文化の元をたどると必ず古代ローマ帝国にたどり着く。地中海を取り巻く大帝国を作り上げ、長期に渡り繁栄を誇ったローマ帝国は、現在のヨーロパ世界の原型を創り上げたと言っても過言ではない。それは、ワインを語る上でも同じである。
古代ローマ帝国の人々は、確かにワインを飲んでいた。神話では、ローマ建国の双子の立役者ロムルスとレムスは狼の乳を飲んで育ったとされているが、ローマが国力をつけ成人してゆくとともにローマの人々はワインの味を覚えていった。ローマがいかにしてヨーロッパ史上最大の帝国を築き上げたのか、そして今後の世界に影響を与えるローマ帝国のワインはどのように発展してきたのか。まずは帝国になる前のローマの成長の過程を見てゆこう。
ローマの建国
紀元前1000年ころに、古代イタリア人がイタリアに南下しローマ付近に定住した。初期のローマは、ローマより北の地域で繁栄していたエトルリア人の支配を受けていたが、やがてエトルリア人を追放し、君主を持たない共和制の都市国家として成立した。初期のローマは、貴族(パトリキ)と平民(プレブス)で構成されており、身分の差が存在していた。最高官職であるコンスル(執政官)は貴族から選出され、コンスルの諮問機関として位置づけられる元老院は実質的なローマの支配権を握っていた。
しかし平民が重装歩兵部隊として重要な役割を果たすようになると、貴族との格差に不満が生じてくる。身分闘争の結果、紀元前5世紀前半に護民官と呼ばれるコンスルや元老院に対して拒否権を持つ平民の役職と、平民だけの民会である平民会が成立した。その後、貴族が独占していた慣習法を成文化した十二表法が公開され、紀元前367年にはコンスルのうち一人は平民から選出するように定めたリキニウス・セクスティウス法が制定された。紀元前287年にはホルテンシウス法が定められ、平民会の決議が元老院を通さずにローマの法となることが定められた。このようにして貴族と平民の社会的な身分の差はなくなっていった。
共和制ローマの発展は、幾度にも渡る対外戦争の結果であった。ローマはまず度重なる戦争でイタリアを統一し、第一次ポエニ戦争を経てシチリア島も属州に治めた。共和政ローマは次にフェニキア人が建設したカルタゴ(こちらも参照)と戦うことになるのだが(第二次ポエニ戦争)、カルタゴの名称ハンニバルによりローマは一時滅亡の危機に陥る。彼が指揮を執りローマ軍を殲滅させたカンナエの戦いでの戦術は、後のアレクサンダー大王やナポレオンも応用したという。しかし、ローマの名将スキピオなどの活躍によりハンニバルを退け、カルタゴやヒスパニア(現在のスペイン)を事実上支配した。西地中海を手中に収めたローマは、次にヘレニズム世界へ進出した。紀元前2世紀中頃にはマケドニアやギリシアの諸ポリスを支配し、地中海の覇者となっていった。
共和制ローマが西地中海全域という広大な領域を支配できた理由は、その統治方法にあった。戦争で征服した国や地域を壊滅させるのではなく、属州としてローマと同盟を結ばせ、一部の人々にローマの市民権を与えるなど諸都市に一定の権利を与えた。この宥和政策の結果、植民市の反乱を予防することができた。
度重なる対外戦争や征服により、ローマの社会は大きく変わることになった。属州からの安価な作物がローマに流れ込んだことによって、重装歩兵部隊の主力と成っていた中小農民が没落してしまったのである。資本のあるものは、中小農民が手放した土地を買い取り、属州からの奴隷を用いて大土地所有(ラティフンディア)を営んだ。市民の間の経済格差が広がり、共和制の土台がゆるぎ始めた。政治家も元老院の伝統的支配を守ろうとする閥族派と、無産市民や騎士の平民派に分裂した。農民の没落を危惧したグラックス兄弟は、公有地を不当に占領しているものから土地を没収し無産市民に分配しようとしたが、保守派の反対により兄は殺害され弟は自害してしまう。政治に暴力が持ち込まれたことにより、以降ローマは内乱の世紀に突入する。
ワインと口づけ
さて、この共和制時代にローマの人々はワインをどのように飲んでいたのだろうか。
当時女性はワインを飲むことは固く禁止されていた。妻がワインを飲んでいるところを夫が発見した場合、すぐさま離婚することができたり、もっとひどい場合には自由に殺したりしてもよかったとされている。しかし多くの夫がそのようなことをしたとは考えられていない。妻がワインを飲んだことによる離婚が最後に記録されているのは、紀元前194年のことである。妻が家のワインを飲んでいないか確かめるために、帰宅した夫が妻に口づけをしたことから、恋人同士でキスをする文化が始まったというロマンティックな説も提唱されている。
男女の差別はあったものの、ローマの人々はワインを飲んでいた。ローマが戦争して植民市を増やすとともに、植民市から大量のワインが流れ込んできた。また土地活用の変革が訪れると、貴族たちは儲かるワインをこぞって造り出した。度重なる勝利で裕福になったローマでは、贅沢品のワインの需要が拡大していった。
ローマの甘口ワイン
ローマの人々が好んで飲んでいたワインは、とりわけ甘口の白ワインであった。そもそも砂糖が普及するごく最近まで、甘いものと言ったら蜂蜜か甘口ワインのみであった。そのため、甘口白ワインは当時のローマの人々にとって最高の贅沢品であった。
中でもひときわ有名であったのは、ファレルヌムである。ファレルヌムとは、ラティウムとカンパニア(現在のラツィオ州とカンパーニア州)の県境にあるファレルヌス山の麓の畑から造られる甘口白ワインである。『博物誌』を記したプリニウスが「炎を近づけると火がつく唯一のワイン」と述べていることから、アルコール度数も非常に高かったと考えられる。中でも紀元前121年のファレルヌムワインは最高の当たり年であったらしく、そのヴィンテージのワインはその年のコンスルにちなんでオピミウスワインと呼ばれた。私たちがワインを選ぶ際にすこぶる気にかける畑名ワインであったり当たり年のワインという概念は、ローマの時代にすでに生まれていた。
ファレルヌムの畑が位置していたのは、現在のファレルノ・デル・マッシコ地区であると考えられている。ローマ帝国崩壊以降、ファレルヌムの畑は廃れてしまったのだが、フランチェスコ・パオロ・アヴァッローネにより復興を遂げ、現在でも優れたワインが生成されている。
ローマの人々は、あの手この手を使って甘口ワインを造った。ワインに蜂蜜を入れたり(ムルスムと呼ばれていた)、ブドウ果汁を煮沸させて濃縮させるなどの、現在ではあまりメジャーではない手法もとられていたが、今日世界各地で見られるような収穫したブドウを干して糖分を濃縮させる手法も採られていた。このようにして造られた甘口ワインはローマではパッスムと呼ばれ、このワインだけは女性が飲んでもよいとされていた。イタリアでは現在でも同様の方法でワインが作られており、パッシートという名で親しまれている。
古代ローマ人は、ワインを甘口に仕上げるための果汁保存の手法も発明していた。収穫後のぶどうの一部をアンフォラに入れ冷たい水に沈めておき、ぶどうを発酵させずに保存する。この未発酵のぶどうの果汁(糖がアルコールに分解されていないので甘い)を辛口ワインに混ぜることにより、甘口ワインに仕上げたのである。この方法は現在でもドイツで行われており、ズース・レゼルヴェと呼ばれている。
また古代ローマ人は、ギリシアの文化を取り入れ(ギリシアの文化についてはこちら)、ワインに様々なものを混ぜて飲んでいた。ギリシアではワインに混ぜものをしないで飲むのが稀であったが、ローマ人もそれに習い、ワインに花や植物、香辛料、そして樹脂など香味成分を多量に混ぜて飲んでいた。今日ヴェルモットに代表されるようなフレーヴァード・ワインの原型とも言える飲み方が、すでに古代ローマから行われていたのである。
以上のように、ギリシアで花開いたワイン文化はローマに深く根付いた。しかし、この洗練されたワイン文化はまだ現在のワイン大国であるフランスまで到達していない。ローマのワイン文化をガリア地方(現在のフランス)へと伝達したのは、紛れもなくローマ内乱期に活躍したカエサルである。次回は、カエサルのガリア戦争とともに、ローマとガリア地方のワイン文化の融合を見てゆこう。