墓に刻まれるワイン
エジプトは現在イスラム圏であるため一見ワインとは関わりが薄いように思えるが、古代エジプトはワインの歴史を語る上で欠かせない。というのも、メソポタミアで生まれたワインを洗練させ、現代と同じようなワイン醸造技術を大成させたのは、紛れもなく古代エジプト人なのである。少なくとも、そのワイン醸造技術やワイン文化が現代まで鮮明な形で記録されているのである。
古代エジプトの歴史を振り返りつつ、古代エジプトでワインがどのように作られ飲まれていたのか、他の文明や今後の歴史にどのように影響を与えてきたのかを見ていこう。
古代エジプト
ひとえに古代エジプトと言っても、いつからいつまでの期間を指すのかはかなり曖昧である。本サイトでは、一般的によく用いられている区分である古王国時代、中王国時代、新王国時代の時代を古代エジプトとして紹介する。
エジプト文明は、メソポタミアと同様に世界最古の文明のうちの一つである。古代ギリシアの歴史家ヘロドトスが「エジプトはナイルの賜物」と言ったように、古代エジプトではナイル川の増水を利用した農業が盛んに行われていた。ナイルの治水のため早くから村落の統合が行われ、紀元前3000年頃にファラオによる統一国家が形成された(古王国時代)。
ナイル川下流のメンフィスを中心に栄えた古王国時代は、強力な王権が成立していた。この過去の栄光を現在でも色褪せることなく鮮やかに映し出すものが、ピラミッドである。ギザの三大ピラミッドはエジプトを代表する観光地としても有名である。古王国時代のファラオは、自らの墓としてこのような巨大なピラミッドを建立したと考えられている。
やがて古王国は衰退し一時混乱期に入ったが、紀元前20世紀頃に再度テーベを首都とした統一国家が成立した。中王国時代である。300年ほど繁栄を取り戻したエジプトであったが、末期にはシリアの遊牧民ヒクソスの侵入によってその勢力は衰え、再度混乱期に突入する。
しかし紀元前16世紀頃になると、ヒクソスを追い出し再びエジプトに統一国家である新王国が成立した。新王国時代はシリアなどへの積極的な遠征であったりギリシアとの盛んな貿易であったりを行い、多様な文化が花開いた。ルクソール近郊にあるカルナック神殿は大層なものである。数々の王の墓があることで有名な王家の谷も、新王国時代の産物である。王の墓には副葬品として多くの財宝が眠っていたため、今までの時代の王の墓はよく墓荒らしに遭った。そのため、トトメス1世は自らの墓を隠すためにこの地に岩窟墓を作り上げた。以降の王はこぞって自らの埋葬地に王家の谷を選んだ。結局王家の谷もかなり墓荒らしに遭ったのだが、ツタンカーメンの墓は財宝が未盗難の状態で発見され世界中を驚かせた。新王国時代にエジプトは最盛を誇ったが、やがて衰退してゆき、紀元前5世紀頃にペルシアに完全に征服された。
古代エジプトは、太陽神ラーを主神とする多神教であった。新王国時代にアメンホテプ4世が進めたアトン神のみを崇拝する一神教の信仰改革は彼の死後すぐに衰退してしまったが、その改革により伝統にとらわれない写実的なアマルナ美術が発展した。このアメンホテプ4世が進めた一神教の考えは、後のユダヤ教にも影響を与えていると考えられている。
古代エジプトは、筆記媒体としてパピルス紙を用いていた(メソポタミアでは、筆記媒体はもっぱら粘土板であった)。彼らの用いていた神聖文字(ヒエログリフ)は、ロゼッタストーンの発見により解読がかなり進んだ。また彼らが用いていた暦である太陽暦は、現在使用されているグレゴリオ暦の原型である。この正確な暦は、かなり高度な数学の知見を彼らが持っていたことを示している(ピラミッド建設に使用された幾何学や物理学もかなり高度なものであった)。
彼らは紛れもなく優れた知恵や知識を持っていた。その知恵や知識をワインの醸造に対して使わなかったとは考えられまい。
墓とワイン
古代エジプト人がワインをどのように作っていたかは鮮明にわかる。というのも、彼らはワインをどのように造りどのように飲んでいたかを、壁画やパピルスに書き残していたからである。
上の壁画は、トトメス4世の書記で天文官であるナクトの墓に描かれていた壁画である。勘のいい人はすぐ分かる通り、これはワインの醸造工程を記した壁画であると考えられる。右側の人物は、アーチ状に棚仕立てされたぶどうを収穫している。左側の人物たちはぶどうを踏んで搾汁し、隣の石の桶に液体を流している。圧搾中のぶどうはぬるぬるして滑りやすいため、つり革のような紐を掴んで体を安定させているところにもエジプト人の知恵が伺える。奥に見えるのは、紛れもなくアンフォラである。絞ったぶどうの液体をそこに入れ、発酵させていたのであろう。古代エジプト人がワインを造っていたこと、それもどのような工程で造っていたかまではっきりと分かる壁画である。このような、古代エジプト人がワインを確かに造っていたという証拠が、いたるところから発見されている。
この壁画では人々は足でぶどうを踏んで搾汁していたが、この搾汁という工程にエジプト人の知恵が伺える。人類が黎明期にコーカサス地方で作っていたワインは、おそらくクヴェヴリにぶどうをそのまま入れ放置し発酵させたもので、液体とともにぶどうの種やオリが混じっていただろう。古代エジプト人たちはぶどうを搾汁し液体だけを発酵させることにより、ワインの品質を向上させたのである。
搾汁した液体はアンフォラに入れられ、封をされる。エジプトは暑い気候のため、発酵が急速に進んだだろう。アルコール発酵は二酸化炭素を生じさせる。急速な発行により、ぶくぶくとアンフォラからぶどうの果汁が吹きこぼれたりしている様子も壁画にちゃんと描かれている。ジョージアのようにクヴェヴリを土に埋め冷やし発酵を安定させるという手法はとられなかったようだ。アンフォラに入れられたワインは、発酵が終わるとそのまま静かに熟成された。古代エジプトでは、現代のワイン醸造の基本となる「搾汁」やアンフォラによる「貯蔵・熟成」がすでに行われていたのである。
さらに驚くべきことに、アンフォラには中に入っているワインの醸造年、品質、醸造責任者、ぶどう園の責任者などが記載されている。これはおそらく偽物のワインでなことを証明するために記載されたものであろう。現代のワインの原産地呼称制度の原型とも言えるような仕組みが、この古代エジプトですでに行われていたのである。
エジプトでは確かにワインが作られていた。では、そのワインはどのように飲まれていたのだろうか。この答えも、墓の壁画に活き活きと描かれている。
第18王朝の高官ネブアメンの墓には、御馳走や酒、そして音楽やダンスを楽しむ宴会の様子が描かれている。下段の大量のアンフォラにはワインが入っているのだろう。この壁画は、貴族が見世物を見ながら酒を楽しむような節度がある宴会の様子が描かれているが、ある壁画には飲みすぎたせいか女性が嘔吐する姿も描かれている。このように日常的な享楽の宴会にワインが用いられるようになったのは、新王国時代になってからだと考えられている。初期の頃はワインはもっぱら神に捧げる飲み物で、祭りの際に振る舞われていた。
古代エジプトでは、お酒を飲み酔うということは楽しみのため、そして死者や神と交流する手段でもあった。古代エジプトの王や貴族たちは、かなりの量のワインを消費していた。しかし庶民の方はどうだったかというと、飲んでいたのはもっぱらビールであったらしい。ワインが庶民の飲み物となるのは、ヘレニズムやヘブライズムの時代になってからである。
エジプトはイスラム圏であるものの、少量であるがワインを生産している。ツタンカーメンの墓から車で1時間の、紅海沿岸のリゾート地エル・グーナにあるワイナリー「コウロム」では、ヨーロッパで賞を取るような高品質なワインが生産されている。
以上のように、実はワイン醸造工程は古代エジプト時代から現代に至るまでほとんど変わっていない。神に捧げるものとして、そして貴族が飲むためのものとして、古代エジプト時代から人々は熱心に良質なワインを造ろうとしていた。良質なワインは高く売れる。今後の世界では、ワインは貿易品目としても重要な位置を占めるようになってくる。